今週のお題「忘れたいこと」
今週のお題が「忘れたいこと」だそうです
みなさんの記事を読ませていただきましたが、いろいろありましたね〜
お題が「忘れたいこと」なのに、ブログにすると思い出してしまうのに矛盾を感じてしまいますが、記事にして忘れてしまおう!ということなのかもしれませんね
人には大小なりとも記憶から消したい過去があると思います
私も振り返ってみたいと思います
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今週のお題「忘れたいこと」
基本的には、忘れたいことは速攻忘れるタイプです
仕事もプライベートもいやなことは、それぞれに持ち越さないのをモットーにしています
精神衛生上よくないですからね
そんなノーテンキな私ですが、過去を振り返って、人生で一番しんどかった時は、やっぱり思い出したくない・忘れたいことなのかなと思い、いっそここに書いて忘れようと思います
今では別に思い出しても、「あのとき、結構しんどかったよね」と他人事のように思えるので良いですが、当時は本当に逃げ出したいほどきつかった
そのときのお話をしたいと思います
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ブラック企業時代のクレーム案件
これは、私が新卒で入社した会社でのお話でした
私の配属先は人材派遣の部門で、ほぼ終電帰りの日々・土日もサービス出社のような日々でした
いまとなっては全部いい思い出なので、よしとします(笑)
多い時だと、朝6:00のスタッフさんの配属に付き合い、事務作業が終わらず終電で帰ったこともざらでした
この日だけでも、18時間労働(笑)異常ですね(笑)
昼休みなんてもちろんありません
昼は、昼休憩中のスタッフさんに確認電話を入れたりすることでほぼ終わり、13時から面接の時間が入り、気合が入ったスタッフさんは15分前に来たり、往々にして道に迷う方もいるので、位置案内でほぼほぼ時間が過ぎるので、17時にお昼休憩とかざらでした
17時からでも昼休憩は取れればいいですが、役員がいるオフィスだったので、そんな取締がいる中でカップラーメンをずるずる啜れるわけもなく、ひたすら飲み物を飲んで空腹に絶えました
残業代なんて出ませんよ
みなし残業という名の悪魔の手当てがつくだけで、いくら残業しても1円も出ませんでしたね(笑)
でもそんなこと考えるよりも、目の前の仕事をこなすだけで新人の私はいっぱいいっぱいでした
電話は3コール以内に出るじゃない、1コール以内に出る
こんなこともありましたし、売り上げが悪い時は土曜日に反省会とかさせられていましたね
あとは当時の部長が社内メーラーで、よく「今テレアポ何件かけた?」「アポイント取れた?」「●●さんは取れましたよ、取れていないのあなただけですよ」とよく精神攻撃されました
その上司は1年後に退社させられてましたね
一番ひどいときは、深夜3時まで会社の電話でクレーム対応していましたね
さすがにこのときは、「この仕事やめよう」と決心して、いまの会社に転職しました
自分で数えることもおこがましいですが、残業時間なんてとっくに100時間超えていましたし、先輩社員も普通に土日に現場に行ったりしていたので、それが当たり前だと感じていました
さらに、残業を確か36協定で月40時間までに抑えないと、上司にやんや言われるので、みんな40時間を超えないように、調整していましたね(笑)
明らかにおかしい勤怠が出来上がるわけですよ
月の1日〜15日の前半くらいは毎日3時間の残業をつけているのに、月の後半の16日以降は残業ゼロ!(笑)
そんな勤務実績が12ヶ月連続も続いたら、おかしいと思うのが人事だったり総務だったり上司だったりするのでしょうが、当時はそんな意識も低くて、会社の業績のためにひたはしっていました
私の会社は大手ではなかったので、どんなに汗水流しても、会社のネームバリューには勝てず、とにかく足で稼ぐ、労働力をつぎ込む仕事の仕方しか知りませんでした
当時の会社は離職率もすごくて、1年後には半分以上の新卒が辞める傾向でしたし、私の代は結構持った方で1年で4割くらいでした
でも2年経つと半分くらいになっていましたね
そんな環境だったので、「先輩社員」と呼べるまともな人はおらず、どこからか採用した中途採用のひとばっかりでしたね
そんなこともあって、私は2年目で営業所長になりました(笑)
ちなみに、中途採用の人も1ヶ月くらいでいなくなる人もいたので、人の入れ替わりには結構鈍感になっていました
「あ、やっぱり辞めたのね」くらいにしか思っていなかったです
その後、2年半お世話になりましたが、いまではもう2割くらいの同期しか残っていませんが、彼らはがんばっていますよ、今も
まあ、昔よりは環境も体勢も厳しくなったようなので、同僚も「前よりは働きやすいよ」と言っています
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そうそうあれは、2年目の冬のことでした
当時の私の直属の上司である課長からの案件で、とあるコールセンターに3名の人を配属してほしいとのことで、私はそれこそ文字通り血眼で人を探して、配属にしました
そのうちの一人が、結構癖があるひとで、この人が最終的にクレーマーになりました
確か70歳くらいのおじいちゃんでした
私にも非がありますが、簡単に言うと申告されたPCスキルが現場で足りなかったので、途中解雇をしたわけです
後にも先にも途中解雇をしたのは、私の派遣人生でこの1回きりです
派遣会社って、依頼元の会社(ようは派遣先)に「あーだこーだ」言われると、往々にして従わざるを得ない場合が多く、今回も結構会社として付き合いが長い骨太の会社さんだったので、いろいろ策は講じましたが、やむなく途中解雇となりました
彼からにはいまでも申し訳ないと思っていますが、就労していない分の賃金を支払うというイレギュラーの対応で、この案件は終息したと思われました
しかし、悲劇はここからで、毎日・毎晩そのおじいちゃんから電話が来るわけです
納得できなかったのかもしれませんね
パソコンスキルがないって言われて解雇されたんですから、長い経歴に傷がついたと思ったのかもしれません
今思えば、「脅し」に近いことを言われていたのですが、当時の私は「すみません」しか言えませんでした
例えば言葉が荒いですが、そのまま表現すると「すみませんじゃねえよ!」「社長出せよ!」「今から会社に乗り込んでいってやろうか」「お前じゃ話にならねえよ」ということを永遠深夜3時まで続きました
なんか裏社会にツテがあるとかで、会社の前でデモ起こしてやるとかも言われましたね
結構な強迫じゃないですか(笑)
こんな電話が毎日1〜2時間ほど勤務時間中に、勤務時間街の21時とかから2〜3時間ほどあって、都度対応しました
解雇の話としてはもう終わっており、別に労基に行かれても派遣元としてはやるべきことはやったので、別に裁判になっても問題ないことは理解していたので、好きにしてくださいと思っていました
当時の課長も、役員レベルにはこの話を入れていたので、もう私としては怖いものなし(この会社を辞めることも決めていたので出世とかもどうでもよかった)で、あとはこのおじいちゃんの怒りが収まってくれるのを待つだけでした
当時の私は臆病で、このクレームのような嵐の電話の件を課長に相談することができませんでした
自分もきちんとPCスキルを把握できていなかった非もあるので、誠心誠意この電話に対応する姿勢でしか私はできないと判断し、胃が痛くなる思いを超えて、電話にで続けました
その時、2月の寒い日で、東京であっても厚着をしないといけないくらいの寒さでしたが、お風呂上がりに着信が入っていれば、湯上りで風邪を引くことも厭わず、外に電話をかけにいっていました
外に行ったのは、当時今の旦那と同棲をしており、この電話を聞かれたくない思いで自分から外に言っていました
電話は気分的にかかってくることが多く、夜の1時過ぎとか、明らかに「飲んだ帰りだろ」と思うような日もありましたが、ぐっと気持ちを押さえて、耐えました
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振り返ると、このおじいちゃんは後半ただ話を聞いて欲しかっただけなのだと思いました
一人暮らしの70歳
家に帰っても誰もおらず、話をしたかったのだと思います
このおじいちゃんの拳が下がった出来事があり、本人がそう言っていたのですが、「私が地方出身だから」だそうです
「え、そこ(笑)」と思いましたが、私は田舎の出身で、両親が稲作をしていることやおじいちゃんおばあちゃんにも育てられたことを言うと、「はっとした」のだそうです
ちなみに私の個人情報は、求められたので、素直に話しただけです
このおじいちゃんは、新卒上がりのウェイウェイ都会人の女に、仕事という点でもてはやされたことが気に食わなかったのだと思います
私が田舎出身のことを伝えると、なぜか「悪かった」と謝られました
そして、なぜか泣き始めて「そうじゃない、そうじゃない」と思わぬ方向に展開が進みました
そして「この仕事向いてないから、すぐに転職しなさい」と言われ「(言われなくても)します」と言って、その日から電話がなることはありませんでした
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当時の私は、それこそ電話恐怖症で、会社で着信音やバイブレーションの音を聞くたびに、お腹がいたくなるほどで、激務に耐え兼ねた体はすでに碑銘を上げており、仕事中に鼻血が出てくるようになっていました(それが3月)
そしてこの件が落ち着いた段階で課長に退職の申し出をして、6月末で退職しました
課長は残って欲しかったみたいで、私もなんだかんだ文句は言いつつも会社自体は好きだったので(業務が無理だった)転勤とかして違う業務でがんばることも自分の中でも打診しましたが、業界の限界も感じていたので、ここは意思を貫き通しました
業界の限界は、仕事を紹介できないことです
どんなに働きたくても、派遣先の言い分もあり、全員を就職に導くことができない限界を感じていました
大手の人の囲い込みがあったり、中小企業の私たちは隙間産業で生業をするしかなく、対応が難しいスタッフさんとのメンテナンスとかもうしんどかったです
本心としては「辞めたい」という人がいれば「辞めちゃえば」と思うのですが、仕事上・売り上げ上辞めてもらうわけにはいかず、自分の心の矛盾にも嫌気がさしていましたし、無理に働いてもらうことに申し訳なさも感じ、課長に退職の申し出をして、初めて「辞める勇気」を知りました
次の就業先を紹介しても、「ここじゃいや」と言われ、他に仕事を紹介したくても自社として持っている案件ベースでしか仕事を紹介できず、真に派遣スタッフの力になれないと自分の無力さからも退社を決意しました
派遣先も言っていることが先週と今週で違って、もう「全部面倒」になりました
建前ではイエスと言っても、裏ではノーなのです
また、当時はプライベートなんてまったくなく、飛んだ派遣スタッフの穴埋めで、アパレルのラインに入って半日働いたこともありました(今ではいい思い出)
ティッシュ配りの派遣のために1日かけて現場を回ったり、「〇〇さん来てないよ」と言われれば飛んで現場に行き、謝罪をし、家から片道2時間の現場に行ったり、自宅訪問をしてお手紙をポストに入れたり・・・年末年始も電話対応で、お母さんの運転する車の中でシフト組みをしたり、現場に電話を入れたりしたのはいい思い出です
本当にいろいろな経験をさせてもらったと感謝の気持ちは変わりません
昔の私がいたからこそ、いまこんな社内ニートみたいな生活をさせてもらっているのですからね
両親も「今の会社になって性格が穏やかになった」と言ってくれたので、もう必死だったのだと思います
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当時の私は人間としても社会人としてもビジネスマンとしても未熟で、今思うと「あの時こうやってたらな」と思うことが多々でした
ただ、こうして策を思い描くことができるほど、成長したのだと感じています
ブラック企業での就業から早4年、肌荒れも治り、毎日マックとファミマの往復生活から体重も4kgほど減り、健康的な体になりました
プライベートも過ごさせてもらって、本当に幸せです
当時を思うと、忘れたいことですが、むしろ「忘れてはいけないこと」なんだと思います
過去の自分を反面教師にこれからもがんばっていきたいと思います
最後までこんな記事にお付き合いいただき、ありがとうございます
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