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【世界で最も売れた少女漫画】フルーツバスケットという何かと根が深いアニメを徹底解説・レビュー【もっと評価されるべき】

初めに

「フルーツバスケット」というアニメをご存知だろうか。まだ見ていない方は、ぜひいまこのレビューを見る前に、見てきて欲しい。損はないから。約束をする。

 

正直なめていました、すみません。仕事しながら流し見していた自分を本気で叱りたいと思う。ガチでテレビの前で膝を追ってみていたら、確実に泣いていた。ここまでぐっとくるのは、CLANNAD以来だと思う。深い。このアニメは深い。

 

と、言うことでレビューをしたいと思う。

ネタバレも含む感想なのでまっさらな気持ちで見たい方は、レビューなんてどうでもいいから、早くアニメを見て欲しい。

 

軽い気持ちで見始めていた。干支の十二支をモチーフにした作品で、美男美女やら幼児やらが出てくるハッピーストーリーかなと思っていたら、結構伏線も張られていて、最後に全部回収してくるあたり、かなり巧妙に作られている。キャッキャウフフなハーレム展開?と思いきや、結構ダークな側面もあって、血も流れるし崖から落ちるし救急車で運ばれるしもう情報が多い。(後半の方だけれども)各々の登場人物が立たされた立場や運命や障害が妙に生々しくて、これがドラマだったらただの泥沼劇だけれども、美しく優しいイラストでなんとか最後まで見ることができる。ぜひ、見ていただきたい。(これは1万字レビューを覚悟した)

 

2022年に続編決定・舞台化決定、2021年に展覧会を西武池袋で開催するなどまだまだ興奮が覚めやまない「フルーツバスケット」の魅力をとことん紹介したい。

 

(本レビュー記事は、2019年から公開されているアニメのレビューを行っているので、初期アニメとは異なる解釈が生まれる場合もあるので、事前にお断りしておきたい)

「フルーツバスケット」とは?

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概要

『フルーツバスケット』は、高屋奈月による日本の漫画。『花とゆめ』において、1998年16号から2006年24号まで連載された。全23巻。略称は「フルバ」・「フルバス」など。作者の高屋は「フルバ」と呼称している。 テレビアニメ作品としても制作され、2001年にテレビ東京系列にて放送された。 ウィキペディア

私が見たのはリメイクされた版で2019年にシーズン3に渡ってアニメ化されたものだ。Amazonプライムで視聴できるので、会員はいますぐ見てほしい。私のレビューはどうでもいいのでなるはやで見て欲しい。

ギネス記録も樹立

どうやらただのアニメではなかったらしい。原作の漫画は数々の賞を受賞しており、なんと「世界で最も売れた漫画作品」としてギネスに登録されているらしい。これは恐れ入った。感動する作品であることが心から納得できる。

 

こんな大作を今まで知らなかったなんて、恥である。なぜ知らなかったのか疑問であるくらいだ。自分が過去に書いたオススメアニメ50にランクインさせたい。

2001年、第25回講談社漫画賞・少女部門受賞。2018年11月時点で単行本の全世界累計発行部数は3000万部を突破している[2]。北米では、2004年にTOKYOPOPより初刊が刊行され、2006年12月の時点において15巻まで刊行。同社最大のヒット作であり、2006年12月6日のTOKYOPOPの公式サイトで、15巻までの累計売上部数が200万部を超えたことが発表された[3]。また、2007年に「もっとも売れている少女マンガ」として、ギネスブックに認定されている[4]

 

www.udablog.com

「フルーツバスケット」のあらすじ

草摩家の分家宅に居候することになった主人公・本田透と、動物憑きの奇妙な体質を持つ草摩家の面々との交流を中心に描く。連載当初は「ホームコメディ」と掲載雑誌で紹介されていたが、作者自身は「コメディ」を意識してはいない、と単行本内で述べていた。

居候先の家で馬が合わず、高校生ながらビルの清掃のアルバイトをして生計を立てる主人公の本田透ちゃん。さらに家がないので、森でテント生活をしている。この時点では「荒川THEアンダーブリッジ」を彷彿とさせるコメディなのかなと思いきや、全くの急展開を見せるのが面白い。作者曰く、この作品は「コメディではない」と言っているようなので、そうなのだろう。ホームドラマというべきか。いや、ホームドラマというとアットホームな家族が出てきててんやわんやするイメージではあるが、「フルーツバスケット」は違う。言い方に語弊があるかもしれないが、「もっとドロドロしている」のだ。見ればわかる。深いのだ。

胸にくるのは過去回想と背景と登場人物の未来

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「全世界が涙した」とも称される「フルーツバスケット」。その魅力をいつかに分けて紹介する。

 

どの十二支たちも心の傷を抱えていたり、人には言えない悩みを持っている。そんな闇を隠しながらも生きる姿は現代の私たちと重なるところがあるのではないか。そしてその壁を残り得る姿は、どれも綺麗事ばかりではなく、生々しく人間味溢れている。

 

十二支の呪いに近いつながりが呪縛となっているが、その呪縛を受け入れながらも自分らしさを求めて生きる。なんだか生きることはこんなにも難しかったのかと疑問を投げかけられているようだ。私たちも十二支の呪縛ではないが、各呪縛として背負っているものがある。顔のコンプレックスだったり、体のコンプレックスだったり何かと人と比べて自分が劣ってしまうと感じやすい世の中である。「フルーツバスケット」の登場人物たちも、私たちと同じように等身大で悩み苦しみ、壁を乗り越えていく。そんな姿は日本にとどまらず、国境を越えて世界で共感されているのは、人間が誰しも持つ劣等感や弱い部分に共感しているからなのではないか。

 

たかが日本の漫画、と侮って欲しくない。世界共通の価値観を共用できる大作であるのだ。

 

最終的にはハッピーエンドを迎える「フルーツバスケット」。一時期作品名は伏せるが、バッドエンドで煮え切らない終わり方をするアニメがブームになっていた時期もあるが、本作はしっかりと伏線を全て回収して気持ちがいい終わり方をしてくれるのも見ていて後味がいい。十二支の呪縛から解放されたみんなは、全員明るい未来へ進んでいいく。その姿に私たちは感銘を受け、辛いことがあっても乗り越えようと背中を押される思いを感じるだろう。

物語後半になるにつれてつながっていく人々

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「つながり」がテーマもあると思う。もともとは神と動物たちの約束(つながり)から始まった物語。物語終盤にはこのつながりと言える呪いが解消され、それぞれが思い思いに生きていく。これまで心のうちに閉まっていた思いを言葉にして幸せをその手で掴んでいく。これほどまでに感動するのはこれまでに受けてきた彼らの辛い過去が払拭されていくからなのかもしれない。

 

素直になるのはこれほどまでに罪なのかと思わされるシーンもある。言いたいことも言えずに、ただ心の中で思いを押し殺して生きることの残酷さも痛感させられる。

 

しかし、素直になれることで掴める未来と幸せがあることを、「フルーツバスケット」は教えてくれた。

 

さて、「つながり」という点でいちばん印象深いのは、やはり主人公の透と猫の物の怪憑きの夾と透の母とのつながりである。これはやられた、と思った。実はこの三者は昔からつながっており、時を超えてようやく幸せな形となったのだ。猫の物の怪憑きの夾は怪憑きであるがゆえに、母親に家にいることを強要され、不満を抱えていた。そこで出会ったのが透の母親である今日子と出会う。今日子はくったくなく夾に接する。名前も似ているからということもあったが、夾は今日子に親近感を持つようになる。このことが夾にとっては何よりも嬉しいことだった。そして今日子は夾に「何かあったら透をよろしく」と言付けする。そして運命の日、透が高校生の時に今日子は交通事故で亡くなってしまう。この時不運にも夾は事故現場に居合わせていた。今日子は道路に向かってくる車に気づかずに車道に入ってしまう。夾は今日子を助けようとするが、自分が猫の物の怪憑きであり、もし今日子に抱きついてしまうと自分が猫だということがバレて幻滅されてしまうと思い手を差し伸べることを躊躇した。その結果、今日子は命を落としてしまう。このことを夾は忘れようと憎むべき相手(由希など)を探して過去を拭い去ろうとしていた。しかし透との出会いで全てを思い出す。

 

作者よ、なんて残酷なんだ。と思ったが、作者よ、とても美しい話だと思った。その理由は、今日子が死際に行った「許さないから・・・」の言葉の意味である。実はこの「許さない」は文章の一部なのだが、死際の今日子は全文を話しきれずに「許さないから・・・」だけが言葉になっていた。夾は今日子が自分を助けなかったことを「許さない」と勘違いしていたが、実は本当の意味は「道に迷った透を助けて、そしてもし助けてくれないと許さないから」というもの。それを知るのは何年も先になるのは、なんとも残酷ではあるが、その答えがわかっただけでも夾が救われたのは幸いである。

透のどこまでも優しい心

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子供ができたら、透のような娘になって欲しい。そう思わせてくれる透の優しさは作中ずっと至る所で感じることができる。しかし優しいのは、人に優しくされたのもあるが、透が自分自身を守るためであると個人的には解釈をしている。その理由は、透がなぜ敬語で話すかが鍵となる。透は父を亡くしたときに、容姿も全く似ていないという親戚陣の心ない言葉をしっかりと理解していた。今日子が他所で作った子ではないかという有らぬ疑惑は幼い透にしっかりと傷を残してしまった。そして父の死をきっかけに見間違えるほどにやつれていく母の今日子。透は何かを悟っていた。母も父と同じようにずっと帰ってこない遠くに行ってしまうのではないかということを。危機を覚えた透は父の口癖を真似して話し始める。母が遠くに行ってしまわないように、ある意味で父に成り代わって、母をつなぎ止めようとしたのではないか。それがやつれた母への透からの優しさであり、自分をひとりにしないための透なりの自己防衛だった。また亡くなった父を忘れないようにとの優しさでもあるのかもしれない。どこまでも、他者を思いやる透らしい生き方である。

 

ただし透は他者を思いやるばかりに自分の気持ちを犠牲にしてしてしまうところがあるようだ。最終的に透は自分の隠れていた気持ちに気がつき、夾に思いを告白できる。これが透の心の成長であり、自己犠牲からの呪縛の解放であるとも思われる。本当によかったね、透ちゃん。感動したよ。ぐすん。

いつだって生き方は変えられる、というメッセージ

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物語後半、慊人の側近である老女が呟いた言葉がとても印象的だった。

「最近の若い人はすぐに生き方を変えられる。私が何十年と変えられなかった生き方を」といったようなセリフがある。このセリフが「フルーツバスケット」の世界を表している象徴的な言葉であるとも感じている。

 

自分を変えるタイミングはどんなときでも遅いときはない。自分を変えたいと思ったときが、そのタイミングだと言われているような気がする。

 

自分には無理だ、できないと思うことは簡単だ。いまある環境にそのまま身を置けばいい。自分を変えることは大きな反響と体力を消耗する。変えた先に必ず明るい未来が待っているとは限らない。

 

「変態」という言葉がある。生物学的に言えば、虫や動物などの生き物が環境の順応するため・個の命を守るために、種の生存をかけて体を変化させることをいう。一歩間違えると種が絶滅する恐れがある。しかし、変態を行うことでより強い種に生まれ変わり、生存戦略が実現する。まさに命がけのトランスフォームである。人間にも等しくはないが同じようなことは言える。虫や動物と比較すると「心」という点では生存瀬略になるが、自分という種が途絶えない限りは何度でも「変態」することができる。過去に縛られずに、過去と向き合い自分の環境を見つめ、「変えたい」という思いがあれば、人間はいつだって幸せになれる。そう作者や「フルーツバスケット」の登場人物たちが伝えてくれているような気がする。

乗り越えた先に見えた新しい未来

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これも終盤の話になるが、乗り越えた先に見えた未来はとても明るかった。

草摩家の当主として、運命にしばられ草摩のしがらみに最も翻弄されたであろう慊人と透とのかけあいである。慊人は本当は女性であるが男性として育てられた。この時点でもう彼女は一人の人として見られておらず、ただの十二支の神の席につくだけの存在である。彼女の個性はどこにもない。

十二支の神としての人生を全うするために月日を過ごしていたが、それは無論本当の彼女の幸せではなかった。彼女には彼女の幸せと人生がある。十二支の輪の中にいたと思っていた彼女は実は輪の外側にいたと気づいた時の絶望感は計り知れない。その思いを知った透は「そこにいたのですね」と優しく手を差し伸べる。慊人は本当はその思いに誰かに気付いて欲しかったが当主としての立場上自分の気持ちを押し殺してしまう。その結果、透を斬り付けてしまう。致し方ない。十二支の神として、誰かにそんな風に優しく手を差し伸べられたことがないのだから。しかし、すぐにでも取りたかった透の手を突き放して、結果崖から透が落ちてしまう。このことがきっかけで自分の心に向き合うことができ、新しい人生を歩むことができた。自分の人生を崩壊させたと思い込んでいた人物は、実は自分のことを一番分かっていてくれた人物だった。なんとも悲しい堆肥ではあるが、透の「あなたの、お名前は?」のセリフの重さにはぐっと胸を掴まれた。

家に作られた慊人ではなく、「そこにいる等身大の慊人」を知って名前を聞いた透の優しさは、長年氷のように固まった慊人の心をそっと溶かしたのだろう。ようやく自分を知ってくれた、ようやく自分として見てくれた、それだけなのにどうしてこんなにも胸が熱くなるのだろう。

続いていく幸せな物語

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最終話。これはやられる。エピローグ的な話で、それぞれの登場人物のその後を描いている。あんなにも軋轢でぎくしゃくしていた間柄も解消され、皆がそれぞれの幸せに向かってひた進んでいく。自分の心に正直になったみんなは、他の人の幸せも願うようになる。

 

最後に最後にやられたのは、主人公の透と今日のその後である。唐突に登場するのは、幼女。この幼女が「透と今日はどこー?」とくったくなく問いかける。それに答えたのは女性。この女性が「おじいちゃんとおばあちゃんと呼びなさい」と。私は一瞬頭が「???」「・・・」となる。つまり、二人は無事に結婚をして子宝を築き、さらに孫にまで縁は続いたということである。この時点で、これまであった二人のたくさんの障害が思い出され、辛いこと・苦しいこと色々あったけれども、逃げずに立ち向かい、こうして幸せな未来を掴むことができて、本当に良かったと胸が熱くなる思いだけだった。二人の姿はシワだらけの手にはめられたおそらく結婚指輪の描写と大輪の朝顔の丘を歩く後ろ姿である。しかし、この数秒のシーンであるが二人の永遠の幸せが約束されているようにも思える。繋がれた手は「ずっと離れない」を意味している。

 

幸せはつながっていく。それを心から望むのであれば。運命の呪縛からも解放できる。

 

このシーンを見て、本当に時が止まった。画面に釘付けになった。もう一度最初から見たいと思った。心が洗われるようだった。もう二人の幸せを心から願っている自分がいる。彼らの幸せを願うのが私の幸せのように感じていた。最後まで見て本当によかった、と思わせてくれるそんな作品だった。

最後に

稚拙なレビューであるが、最後まで読んでいただいたあなたには感謝しかない。しかし私がいくら言葉で表現しようとも、「フルーツバスケット」の魅力は伝えきれない。一度見て欲しい。そして体感して欲しい。壁に立ち向かう登場人物たちの葛藤と焦燥と、乗り越えた先に見えた空の綺麗さを。雨上がりの外のように、綺麗に洗われたみんなを見て欲しい。そして自分で感じたものを味わって欲しい。どうか、人生で1度で良いので見て欲しい。私からのメッセージはそれだけである。

 

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