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映画『樹海村』―呪いと血脈が絡み合う恐怖。人が“見てはいけないもの”とは何か?

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映画『樹海村』―呪いと血脈が絡み合う恐怖。人が“見てはいけないもの”とは何か?

日本ホラー界の巨匠・清水崇監督による『樹海村』(2021年公開)は、前作『犬鳴村』に続く「村」シリーズ第2弾です。
“実在する心霊スポット”として知られる富士の樹海を舞台に、都市伝説と家族の呪い、そして「見てはいけないもの」を描いた本作は、単なるホラーではなく、人間の心の闇と血脈の恐ろしさを浮かび上がらせる作品でもあります。

この記事では、物語のあらすじを整理しながら、作品に込められたテーマ、呪いの正体、そして衝撃的なラストシーンの意味を丁寧に考察していきます。


■あらすじ:封印された“コトリバコ”が呼び覚ます呪い

物語は、女子高生・鳴(山田杏奈)と、いとこの響(山口まゆ)を中心に展開します。
響の母は精神を病み、かつて「コトリバコ」と呼ばれる呪いの箱を扱っていた家系の末裔でした。
ある日、響たちは偶然その「コトリバコ」を発見してしまいます。箱の中には、呪詛の力を宿した“命の残滓”が封じられており、それを見た者は次々と異様な死を遂げるのです。

鳴は姉を救うため、樹海に足を踏み入れますが、そこは“現実と霊界が交わる場所”。
過去に自ら命を絶った人々の魂が彷徨い、呪いを糧に新たな命を奪おうとしていました。
やがて、響の中に封じられた「コトリバコの呪い」と、家系に伝わる“怨念の血”が呼び覚まされ、物語は思いもよらぬ結末へと向かっていきます。


■コトリバコの呪い―「生まれてはいけなかった命」が宿る箱

本作最大のモチーフである「コトリバコ」は、実際にネット上で都市伝説として語られる“最凶の呪物”です。
作中でもこの設定を踏襲しており、「胎児の魂」や「母の怨念」が箱に込められているという生々しい恐怖を描きます。

この“呪いの原動力”となっているのは、過去の女性たちの苦しみ。
子どもを産むことを強いられ、流産や死産を繰り返した女性たちが、怒りと悲しみを封じた結果、箱は生き物のように呪いを拡大させていきます。

つまり「コトリバコ」とは、人間の悪意や社会の歪みが凝縮された象徴であり、
“人が作り出した怪異”とも言える存在なのです。


■樹海という舞台の意味:死と再生の境界線

富士の樹海は、現実にも“自殺の名所”として知られる場所。
映画ではそのイメージをそのまま生かし、「生者と死者の境界が曖昧になる空間」として描かれています。

作中で登場人物が樹海に入ると、方角がわからなくなり、時間の感覚も狂っていく。
木々の間に響く“声”や“影”は、死者の残留思念であり、観る者に強烈な不安を与えます。
清水監督らしい「見せない恐怖」「音で想像させる演出」がここで最大限に生かされています。

しかし、この樹海は単なる恐怖の舞台ではなく、再生の場所でもあります。
鳴が最後に立ち向かうのは、姉・響を通じて受け継がれた“家の呪い”そのもの。
樹海はその“浄化の場”として機能し、血と怨念の連鎖を断ち切るための“儀式空間”として描かれているのです。


■響という存在:呪いを受け継ぐ“媒介者”

響は本作の中心的存在であり、「コトリバコの呪い」を受け継ぐ“生贄”のような役割を担っています。
彼女は家系の呪いの象徴であり、母の苦しみを受け継いだ存在。
その身体の中には、代々封じられてきた怨念が宿り、彼女の感情が不安定になるたびに、周囲の人間を傷つけていきます。

一方で、響は“呪われた血”でありながらも、最後には自らの意思でそれに立ち向かいます。
彼女が鳴のために命を懸けるシーンは、単なるホラーの枠を超えて、家族の愛と赦しの物語としての側面を見せます。
この点が『樹海村』を単なる恐怖映画で終わらせない理由です。


■鳴の視点:恐怖と理性の境界を歩く“観測者”

鳴(山田杏奈)は観客の視点を代弁する存在です。
姉の異変、家族の崩壊、そして次々と起こる怪死事件――そのすべてを“目撃する者”として描かれます。
しかし、彼女が次第に「見える」ようになることで、恐怖は加速していきます。

清水監督の作品には、「見たら終わり」「知ったら取り込まれる」という一貫したテーマがあります。
『呪怨』の伽椰子も、『犬鳴村』の怨霊も同じ。
“見えてしまう人間”は、現実と非現実の境界を越え、戻れなくなる。
鳴もまたその境界に立つ存在として、物語の最終盤で“樹海と一体化していく姉”を見届けることになります。


■ラストシーン解説:響は救われたのか、それとも——

ラストでは、樹海の奥で響が「コトリバコの呪い」を自らの体に取り込み、鳴を守ろうとします。
箱から溢れ出る怨念に飲み込まれながらも、彼女は最後に微笑み、鳴に「もう大丈夫」と告げる。
鳴が涙を流しながら樹海を後にする場面で、物語は幕を閉じます。

一見すると、響が呪いを封じ込め、鳴が生還した“救いのラスト”に見えます。
しかし、その直後、カメラが樹海の奥に戻ると、木々のざわめきの中から再び“箱を叩く音”が響きます。
まるで呪いが完全には終わっていないかのように——。

この演出は、シリーズ共通の“終わらない恐怖”の象徴です。
呪いは形を変えて生き続け、人間の心の闇がある限り、再び誰かを取り込む。
つまり響の自己犠牲は一時的な封印でしかなく、**「見た者は誰も逃れられない」**という清水崇監督の哲学的な終わり方なのです。


■「村」シリーズに共通するテーマ:継承と記憶

『犬鳴村』では「差別と排除の歴史」、
『樹海村』では「血と呪いの連鎖」。
どちらの作品も、ただの怪談ではなく「過去から現代へ受け継がれる負の遺産」をテーマにしています。

特に『樹海村』は、“女性たちの痛み”を強く意識した構成です。
母、姉、娘――いずれも呪いを「受け継ぐ者」として描かれ、
男性よりも圧倒的に女性の情念が物語を動かしています。
これは、古来の日本神話にも通じる“母性と破壊の同居”という構図であり、
清水監督が意図的に「女性の怨念」を中心に据えたことが分かります。


■音と映像の恐怖演出:静寂が語る“見えない恐怖”

『樹海村』の恐怖は、ジャンプスケア(突然驚かせる演出)よりも、
静寂と空気感の恐怖にあります。
木々のざわめき、足音、心臓の鼓動、箱の音。
どれも音の間(ま)を活かした演出で、観客の“想像力”に訴えかけます。

映像面では、青白い樹海の光と赤黒い呪いの対比が印象的。
特に終盤、響の瞳に映る樹海の光景は、“現実と霊界が混じり合う”瞬間を象徴しています。
清水崇監督の原点である『呪怨』の美学――
“怖さは見せるのではなく感じさせる”という哲学が、ここで再び強く表れています。


■人が「見たい」と「見たくない」もの

本作を通して感じる最大のテーマは、「見たくない現実に、どう向き合うか」という問いです。

樹海に入る人々は、皆どこかで“逃げたい”と思っている。
しかし逃げ込んだ先には、自分の罪や痛みが形を変えて現れる。
清水監督は、「本当に怖いのは幽霊ではなく、人間の心」だと繰り返し語っています。
『樹海村』もまた、
自分の過去や家族の闇を直視する勇気を描いた作品なのです。

鳴が最後に樹海を見つめながら涙するシーンは、恐怖よりも哀しさが勝ります。
“見えてしまった人間”はもう元には戻れない。
それでも彼女は生きていく。
その姿に、人間の強さと儚さが凝縮されています。


■まとめ:『樹海村』は呪いの物語であり、赦しの物語

『樹海村』は、ただのホラー映画ではなく、
“家族の呪縛”と“人間の業”を描いた社会的ホラーです。
怖さの中に人間ドラマがあり、呪いの中に愛がある。
清水崇監督が描く「村シリーズ」は、
日本の土着的な恐怖を現代的なテーマで再解釈した、極めて意欲的な作品群だといえます。

ラストで響が樹海に消えていったのは、
単に死んだのではなく、“呪いを受け入れて一体化した”という解釈もできます。
彼女は怨霊ではなく、守護者として樹海に還ったのかもしれません。
その意味で『樹海村』は、“悲劇の終わり”ではなく、“静かな救済”の物語でもあるのです。


💀最後に

「見てはいけない」と言われるものほど、人は見たくなる。
しかし一度見てしまえば、そこにあるのは人間の心そのもの。
『樹海村』の恐怖は、あなたの中にも確かに存在しています。

 

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