こんにちは、2児育児+ワンコ1匹の基本テレワークで日々あがいているぽんです。いつも訪問ありがとうございます(ブックマーク・スターもありがとうございます)。ブログ更新の励みになっています
ボロボロになっていく服が楽しい理由|使い切る喜びと、ものとの付き合い方

あなたは、服が少しずつくたびれていくのを見て、嬉しく感じたことがありますか?
多くの人にとって「服がボロボロになる」というのは、ネガティブなこと。
「そろそろ買い替えかな」と思ったり、「人前では着られない」と感じる瞬間かもしれません。
でも一方で、その“ボロボロ”を楽しみに感じる人たちがいます。
新品よりも、少し色あせたTシャツや、擦り切れたデニムに心が惹かれる。
そんな人たちは、単に物持ちがいいわけではなく、
「ものと共に生きる時間の味わい」を知っているのです。
■「使う」ではなく「付き合う」という感覚
服を大切に着る人は、服を単なる消耗品ではなく、
**“生活のパートナー”**のように感じています。
新品の服は確かにきれいで、気分も上がります。
けれど、自分の体になじみ、少しくたびれてきた頃こそ、
「この服は私の一部になった」と感じる瞬間が訪れます。
袖口の擦れ、色落ち、糸のほつれ。
それらは劣化ではなく、時間の記録。
日々の動きや季節の変化、自分の暮らし方が刻まれた“痕跡”です。
たとえばお気に入りのデニムを10年履いたとき、
それはもう単なる「服」ではなく、「私の人生の一部」になっている。
この感覚こそ、「ボロボロになっていく服を楽しむ」という生き方の根っこにあるのです。
■修繕の中に宿る、ささやかな創造性
服が壊れたとき、あなたはどうしますか?
多くの人は「買い替える」という選択をしますが、
中には「直して着る」ことを楽しむ人もいます。
最近では「ダーニング」や「可視化リペア」と呼ばれる文化が注目されています。
あえて修繕の跡を隠さず、カラフルな糸や布で縫い、
“修理の跡をデザインに変える”という考え方です。
これがまた、不思議と愛着を深めてくれるんです。
穴が空いた靴下を縫うたびに、
「まだ一緒にいたい」と思える。
繕った部分を見ると、あの日の出来事まで思い出せる。
服を直すという行為には、手を動かして時間を取り戻すような静けさがあります。
それは、忙しい日常の中で、
“ものと向き合う時間”を取り戻す、ささやかな瞑想のようなひとときです。
■「使い切る」ことは、やさしさでもある
ボロボロになっても手放せない服には、理由があります。
それは見た目の問題ではなく、関係性の深さです。
長く着ている服ほど、「思い出」が詰まっています。
旅行のとき着た、仕事を頑張った日も着ていた、
子どもを抱っこしたあのシャツ。
それらが少しずつ擦り切れていくのを見ると、
「ああ、自分もこの服と一緒に年を重ねてきたんだ」と感じます。
ものを大切にするということは、単なる節約でも、エコでもなく、
“時間と感謝を大切にする生き方”に近いのかもしれません。
服を最後まで着切るという行為は、
「ありがとう、もう少し一緒に」と語りかけているようなもの。
そこには、静かでやさしい美しさがあります。
■“ボロボロ”を恐れない暮らし方
私たちはつい、「新しいもの」「きれいなもの」を求めがちです。
でも本当の豊かさは、
「長く使えるものを選び、丁寧に付き合うこと」にあるのかもしれません。
たとえば、擦り切れたトレーナーを部屋着にしたり、
お気に入りの布をリメイクしてポーチにしたり。
“ボロボロになっていく”ことを避けるのではなく、
その変化を暮らしの一部として受け入れる。
それだけで、日々が少しあたたかくなります。
服を着ることは、自分の時間を身にまとうこと。
時間を重ねるほどに柔らかく、穏やかに、
「自分らしい服」になっていく。
■おわりに|“使い切る”ことの美学
ボロボロになっていく服を楽しめる人は、
きっと“時間を味方にできる人”です。
物を買ってすぐ飽きてしまうより、
ひとつのものと長く付き合うほうが、
心の奥に静かな充実感を残します。
それは、「もったいない」ではなく、「ありがたい」。
服を使い切ることは、
モノにも自分にもやさしい、生き方の選択です。
だから今日も、少しくたびれた服を手に取り、
「まだ着よう」と思える瞬間が、
ほんの少し誇らしくて、うれしい。
ボロボロになっていく服は、
あなたの時間と暮らしの美しい証なのです。
▼▼ドメイン取るならやっぱり▼▼
▼▼ナウでヤングなドメインがいっぱい▼▼
▼▼はてなブログでもお馴染み▼▼
▼▼ブロガーの強い味方▼▼
▼▼ランキング参加しています▼▼