こんにちは、2児育児+ワンコ1匹の基本テレワークで日々あがいているぽんです。いつも訪問ありがとうございます(ブックマーク・スターもありがとうございます)。ブログ更新の励みになっています
はじめに:現象としての「自認リゼ」

近年、SNS(特にX/旧Twitter)を中心に、「自認レゼ(自認リゼとも表記されることあり)」という語が流行語的に用いられるようになってきました。この語は、あるキャラクター(この場合は『チェンソーマン』のレゼ)を「自分と重なる存在」「自分そのもの」として認めたり、表現したりする自己投影的な語りを指しています。
「自認〇〇(キャラクター名)」という形で、他のキャラクター名にも派生・転用される形が見られ、この「自認キャラ文化」の一端を象徴するキーワードになっています。
ただし、現段階ではこの言葉に関する公式定義や学術的整理はまだ十分ではなく、あくまでネット上の語り・ミーム現象として捉える段階です。
「自認レゼ」が語られる文脈・特徴
自認対象としてレゼを選ぶ理由・動機
なぜ「レゼ」が自認対象になりやすいか、その理由を語られている内容から整理すると、以下のような要因が考えられます。
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性格・キャラクター性の多様性・内面の振れ幅
レゼというキャラクターには、強さ・冷たさ・優しさ・混沌とした感情などが併存する側面があり、「ただ可愛い」だけ、「ただ強い」だけでは語り切れない“揺れ”をはらんでいるという印象を受けます。この揺れが、自己の複雑さと重ねやすいという声があります。 -
物語的な背景要素の共感可能性
レゼには、社会とのズレ、孤立感、愛と破壊をめぐる葛藤など複雑な背景があるため、それを自己語りの“材”として利用できる、という見方もあります。つまり、ただキャラを可愛いと思うだけでなく、「この部分が自分の経験・感覚に近い」と感じる人が、自認対象として選びやすいのです。 -
流行タイミングと拡散性
チェンソーマンの劇場版やメディア展開が注目を集める中で、レゼというキャラも再注目を浴び、それに伴って「自認レゼ」語が拡散したという背景も指摘されます。作品ブームと自己表現ミームの同期が、この現象を一過性のトレンドから“語られるモード”へ押し上げた可能性があります。
自認レゼ語りのスタイル・語り口
自認レゼを語るときには、単なる「このキャラ好き」以上の語り方が選ばれることが多いようです。以下のような言い回し・スタイルが散見されます。
- キャラ語りモード:語り調や文体そのものをキャラクター寄せにする。たとえば「アタシはこう思う」調などキャラの口調を意識する表現。
- “この台詞にゾクッとした”型:作品中のある台詞・場面を引き、「この瞬間が私だと思った」「この言葉で泣いた」など、共鳴体験を強調。
- “揺らぎを抱える私”表現:自分の感情変動・弱さ・矛盾を隠さず提示し、それをレゼを通じて語りたいという傾向。
- 共感探索型/呼びかけ型:語尾に「この感じ分かる人いる?」などを付けて、共感者を探す呼びかけ的語りを行うパターン。
こうした語りのスタイルは、自認レゼを単なる“なりきり”ではなく、自己語りとキャラ語りの中間領域として使おうとする態度を示しています。
批判的な視点・反応
この現象に対しては、肯定的な語りと同時に批判的な視点も多く見られます。主な批判傾向を整理します。
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痛さ・過剰性の指摘
「自認レゼ=痛い」「自己陶酔的すぎる」といった揶揄的コメントが多く聞かれます。特に他者から「重い」「わざとらしい」「ナルシスティック」と見なされるリスクが指摘されます。 -
現実との乖離・逃避性への懸念
キャラクターを通じた自己表現に依存しすぎると、現実の自己とのギャップが大きくなり、自己疎外を深める可能性があるという見方があります。 -
カテゴライズ・同一化強制の圧力
「自認レゼならこう振る舞うべき」「この台詞を使わないのは偽物」といった同一化圧が、コミュニティ内部に暗黙的に生まれる可能性も批判されています。 -
言葉・ミームの消費性
ミーム語として消費されやすく、表層だけが拡散して意味が陳腐化する懸念もあります。たとえば、“名前だけ聞いたけど実際何を意味するかよく知らない”という人が語りに便乗しやすいという側面も指摘されます。
自認キャラ文化の広がりと「女オタク自認欲張りカルテット」論
「自認レゼ」に限らず、「自認キャラ」現象は他キャラクターにも拡張されつつあります。ひとつの流行語的枠組みが、複数のキャラへ波及する構図が生まれており、その代表例のひとつが「女オタク自認欲張りカルテット」という語りです。
この語りでは、女オタク層を前提に、複数キャラクター(レゼを含む)が“自認候補キャラ”として並列に語られる傾向があります。たとえば、ある投稿では「黒川あかね、レゼ、ユーベル、猫猫」など複数キャラを並べ、「自分はこの中の誰か・複数キャラと重なっている」と語る人がいる、という例が挙げられています。
この傾向からは、次のような読みが可能です:
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自己重層性の認知
人が複数のキャラクターに重なりを感じうるという前提を語り手が共有しており、単一キャラクターへの自認・投影よりも、“複数キャラ重なり関係”の方が自然だという風潮が生まれつつある。 -
キャラ選択自由性
時期・気分・心理状態によって“自認キャラ”を使い分けてもよい、という許容感が生まれている。つまり“今日はレゼ”“別の日は別キャラ”という揺らぎを前提とする自己語りが受容されるようになってきている。 -
語り拡張の効用
複数キャラで語ることで、自己表現のレンジを拡張できる。あるキャラXでは語りきれない感情を、別キャラYを交えて語る、という方法論が可能になる。
こうした動きは、「自認キャラ文化」が単発的・ミーム的流行にとどまらず、語り手コミュニティの表現様式変化を内包し始めている兆しと見ることもできます。
意義・問題提起:自認リゼという現代的表現様式
最後に、私見も交えて「自認リゼ」現象から読み取れる意義と問題点を整理しておきます。
意義・拡張可能性
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自己表現の新様式
従来、「日常を語る」「自分の考えを直接書く」形式での自己表現が中心だったところに、キャラクター媒介型の自己語りという別の様式が現れつつあります。キャラを“代理語り手”とすることで、直接的自己開示のハードルを下げたり、心理的距離をとりながら語ったりできるのは、この方式ならではの表現可能性だと思われます。 -
揺らぎを許す自己理解
固定的・統一的・一元的な自己像を前提とする考え方から、揺らぎ・変動・重層性を包含できる自己捉え方への移行を、この文化的現象は示唆しているかもしれません。人は日によって、感情・性質の表れ方が異なるものだから、複数キャラを通じて語る自己語りにはある種の実在性があるともいえます。 -
創作と自己の境界の曖昧化
キャラクター世界と日常自己の境界が曖昧になり、創作・物語世界を自己理解の“素材”として使う行為がより自然化していく可能性があります。キャラクターを“鏡”とすることで、自己理解・表現の装置とする文化圏の拡張性を感じさせます。
問題・リスク提示
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自己とのズレ・ギャップ肥大化
キャラ側の物語性・ドラマ性・設定が強いため、それを自己語りに過度に重ねると、実際の自分とのズレが無視される傾向が出てくる可能性があります。語りの中で“フィクション部分”と“現実部分”を分けきれなくなり、自己の現実面との乖離感が強まるリスクがあります。 -
被ラベリング・同一視圧力
「自認キャラならこうであるべき」という無言ルール感が生まれやすい点。語られる中で、コミュニティ内部での“型”に自分を合わせようとする圧力が入り込む可能性もあります。 -
揶揄圏への転落
痛さ・ナルシズム・自己陶酔と見なされて非難・揶揄されやすい性質を持つ語りであるため、語ること自体が批判・嘲笑の的になる危険もあります。語られ方・受け止め方次第で、自己表現領域が“晒しもの”化する恐れもあります。 -
表層化・意味の消費化
いったんミーム化すると、言葉だけが流行して、語られた個別体験や内的意味が薄まり、表層的な“自認キャラ=流行語”扱いに収まってしまうという懸念もあります。
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